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001: 旧額田村
『中世の額田村』 久慈川の右岸に接し、西は南酒出村、北酒出村、門部村 村の中央を棚倉街道が縦貫し、宿場であった。吾妻鏡には1,180年、没収された佐竹秀義の所領に「糠田」がみえ、1635年の水戸領郷高帳には額田の文字が見える。天保郷帳の古者額田村、米崎村、高岡原村の3か村を額田村と称した時代もある。佐竹、小野崎の額田氏時代は48か寺といわれるほど寺も多くあった。水府志料によると、戸数およそ374とある。また、天保年中(1870から1844)に分かれて、額田東郷、額田南郷、額田北郷の3村となるとる。 画像クイック 額田城跡へ
002: 額田のたっつぁい
『額田のたっつあい』江戸時代の寛政年間に水戸6代藩主徳川冶保の時代、額田に大谷達才という頓知に長けたものがいました。額田引接寺には文政3年(1802年)に没した大谷与市郎の墓があり、これが、たっつあいの墓とされております。その当時は江戸時代の初期のことで、かっての佐竹小野崎時代を想い、表立っては皮肉を言えない時代の抵抗として、風刺した民話が残りました。『水戸の殿様から愛馬を騙し取る話』やうそ比べの中での『名だたる一本の竹(佐竹)』の話は興味深いものでした。額田村は棚倉街道の中での宿場としての往来も多く久慈川に橋もなく、氾濫のときは川止めになり、旅人の足止めともなりました。こうしたことも民話が福島地方にも広がりをみせ、旅の途中で語り継がれ額田のたっつあいの名は広く知るところとなりました。昔はどこの家にもお年寄りがいて昔話としてお孫さんに聞かせたことも長く民話が口伝えに今日まで至っている所以です。
003: 鱗勝院
元徳年間(1329年頃)に創立された。開山は群馬県沼田市の名高い迦葉山龍華院彌勒護国禅寺の高僧巨舟相済和尚。開基は義峰勝公庵主による。額田氏(佐竹氏)ゆかりの寺で初代額田義直が亡父義重のため守護寺とする。(1445年) 曹洞宗。閑静な中に時を忘れさせる雰囲気がある。少し奥まった所にある寺院である。 本堂は梅の木に囲まれおり、墓地が隣接している。額田城主関連の佐竹氏家紋(月丸に五本骨扇)の山門、額田佐竹氏の墓がある。また、額田佐竹氏の娘朝日姫の墓もある。何代目の城主の姫かは、不明。境内の杉の木(樹齢約500年)は市指定の天然記念物である。今はない鏡知院は、額田東郷岸桂寺にあった曹洞宗の寺 鱗勝院末寺とされている。佐竹ゆかりの秋田市にも佐竹義宣が建立した末寺鱗勝院がある。このことからも佐竹氏との深い繋がりは、伺い知れるところでもある。なお、迦葉山龍華院彌勒護国禅寺は、後に、徳川初代将軍の祈願所となり朱印百石、十万国の格式を有し、七百十八町歩が下賜された格式高い寺でもある。
004: 額田神社
康平六年(1063年)創立といわれ、鹿嶋宮と西馬場にあった八幡宮を合祀、 鹿嶋宮は人皇51代平城天皇の御宇大同元酉戌年(806年)に御神武甕槌命を奉納し、後に、佐竹昌義神殿として造営した。この後は白石宮司の話に基づくが、詳細は、定かではないが、徳川光圀公の社寺改革で、那珂市の八幡宮は全て吉田神社、鹿島神社等に改められた。この社だけ特別で、八幡神を残し、鹿島神と合祀して「額田神宮」とするよう光圀公より命じられたが、神宮は恐れ多いので額田神社としたようである。約200年後、寛政3年(1791)に「正名論」を著わした水戸学の祖 藤田幽谷(ゆうこく)の弟子、会沢正志斎先生(字は伯民)が額田神社を訪れた折り、光圀の命を重んじて「額田神宮」の額を送ったと言われている。ちなみに会沢正志斎は、文政8年1825年3月、水戸学の「新論」を著わした人でもある。その後も、地元では相変わらず額田神社と呼び崇拝。明治6年、現在の鹿嶋八幡神社に改名されたが、今まで、相も変わらず額田神社と呼んでいる。なお、光圀の社寺改革で残ったといわれる八幡宮は那賀(那珂)、久慈、多賀3郡で馬場八幡宮、若宮八幡宮、安良川八幡宮(高萩市)、それと額田神社と主だったものは減らされてしまった。八幡宮は佐竹の守護神であった所以である。
005: 会沢伯民とは?
★会沢正志斎 1782~1863(天明2~文久3)江戸時代後期の水戸藩士・儒学者。名は安(やすし),字は伯民(はくみん),通称は恒蔵,正志斎は号。10歳のとき藤田幽谷の門に入り,儒学と史学を学び,1799年(寛政11年)彰考館に入り、『大日本史』の編さんにあずかった。 1824年(文政7年)大津浜(北茨城市)におこった異人上陸事件に際し筆談役としてイギリス人と接触,危機感を強め,その翌年『新論』を著した。これは幕末尊王攘夷運動に大きな影響を与えた著作として知られている。藩主徳川斉昭公が推進した天保の藩政改革には藤田東湖らとともに尽力,郡奉行・御用調役・彰考館総裁を歴任。また1840年(天保11)には藩校弘道館の初代教授頭取(総裁)となったが,1844年(弘化1)の斉昭の失脚に際し罰せられて職を退いた。のち弘道館教授に復している。安政年間(1854~1860年)の尊攘派の激派と鎮派に分裂では鎮派に属して活躍した。激派は桜田門外の変や天狗党の乱に関わっていく。ちなみに天狗の意味は従来、門閥派と学術派(水戸学)とに分かれたがを水戸学を 鼻にかけて天狗のように生意気であるという意味から出ている。
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