那珂市の地域バーチャルタウン(事業者情報):アッとタウン那珂

額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

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発刊にあたって


・ ごあいさつ

ごあいさつ
このたび、額田歴史の散歩道として、多くの方々のご協力をもちまして写真集を兼ね、発刊に至りました。
『美しい日本』がテーマーになる今日、改めて、我がふるさと額田の美しさ 伝統の重みを感ずる今日この頃です。開けゆく那珂市の中において、開発、前進だけがプラスのように考えられがちですが、額田の歴史を知れば知るほど歴史の重みと有形無形の遺産の重要性とその保存の重要性が再認識されます。本著は「何か郷土の案内本のようなものがあればね」という言葉を契機として発刊への足がかりとなりました。日を追って「ここもいれたら」「あそこもいれたら」「うちにこんな資料があるよ」「朱印判を押せるスペースを うちの寺に来たら朱印を押しますよ」と多数のアドバイスをいただきました。当初20ページが倍を超えるに至りました。そういう意味では皆さんに支えられてできた一冊です。何せ、遠い昔日のこと、どれが確かかは定かではありませんが、その点はお含みの上、ご照覧下さい。作成にあたりましては、額田公民館 那珂市商工会額田支部 那珂歴史研究会 額田城跡保存会 額田まつり実行委員会 掲載施設、アルバムから抜粋して提供していただいた方々のご協力誠にありがとうございました。
編集責任者 那珂市額田北郷524 小田部 一彦 09024128305

・ 額田歴史の散歩道の発刊に寄せて

額田歴史の散歩道の発刊に寄せて
額田歴史の散歩道の発刊に寄せて
那珂市中央公民館額田分館長 松本 守
  
 那珂台地の北側に位置する額田は、各種文献によりますと治承4年(1180年)佐竹家第4代佐竹秀義公の頃は糠田と称し、寛永12年(1635年)当時は額田と改称されていると記録されています。私達の生まれ育った『額田』は)私達の想像を遥かに超える歴史の重みをもつ地域であると改めて感じ入った次第です。今般、小田部一彦氏と中島省三先生のご努力により、『額田歴史の散歩道』が発刊されました。本書は額田城、額田神社を初め、額田の名刹や近隣の名所旧跡を読者の立場に立って調査編集したものです、極めて信頼性も高く、使い勝ってのよいガイドブックになっています。どうぞ、額田の皆様はもちろんのこと那珂市の多くの皆様にご一読、ご活用を推奨いたします。    以上


・ 額田小野崎氏

額田小野崎氏
額田小野崎氏の家系
小野崎氏は、山尾流を宗家に、額田、石神の有力庶子家があった。
 額田小野崎氏は、通胤の子通業の孫隼人正通重が那珂郡額田城に拠ったことに始まる。小野崎氏の有力一族として、佐竹氏の旗下に属しながらも自立性が高く、たびたび佐竹氏に反抗を繰り返してきた。戦国期の当主は従通で彦三郎を称し、のち下野守となった。従通の名の初見は、天正九年(1581)十二月、家臣の富岡孫太郎に一字を与え、通茂を名らせたときである。同十六~十七年に、江戸氏の内紛である「神生の乱」が起きた時、その張本人の神生右衛門大夫を援け、佐竹義宣の支援を受けた江戸重通と戦った。この時、佐竹氏と対立していた伊達政宗は、自分に味方すれば照通に江戸一跡を与えようと誘いをかけている。しかし、同十七年五月、重通・従通間の和が成り、照通はふたたび佐竹氏の旗下に属し、翌年五月の佐竹氏の小田原参陣に際して、義宣に従い秀吉に謁した。その翌年、豊臣政権を背景とした佐竹義宣が、領国統一のために額田城に攻撃をかけたため、照通はたまらず伊達政宗を頼って落ちていった。

・ 額田城

額田城
佐竹氏、後に小野崎氏の居城 多連郭方式
久慈浜が見え久慈見城とも言われる。


額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

〒 311-0108茨城県那珂市額田北郷524-14

TEL 09024128305