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額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

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2015年06月19日(金)

額田の先人 原好誼軒  家塾 『占春亭』の指導者

原好誼軒は久慈郡白羽の渡辺家に生まれ、寛政5年に額田の原光重に請われ養子に入った。当時(1803年)、原家は、47石3斗3升7合の高持百姓で卵薬を販売し、村内きっての裕福な家で幼い時から学問を好み、地理学者長久保赤水、に学んだ太田郷の立原淳美に学び、励んだ。淳美は温厚恭敬な性格から門人が集まり、慕われ地元の若者を教授していた。淳美の没後、家塾『占春亭』を開き、指導には『考経』を用い孝行を説いた。那珂郡、久慈郡から人が集まり、薫陶をうけた。医談会や郷学会という学習の場ができ、交流が深まり、地方庶民文化の高まりをみせた。また手まり唄を作っては女児に唄わせたりした。地域のリーダー格として額田駅長を職に就いた。(駅長と言っても当時はまさしく厩の長) 有名な豊後の水府の青蓮寺の行き倒れの父を迎えに九州から出てくる二孝女伝説の物語の登場人物でもある。額田村では阿弥陀寺の住職はじめ5人の人物がこの豊後からきた二人の娘に餞別を持たせ歌をうたい送った。好誼軒はそのうちの一人である。その歌が大分県教育委員会で所持していた。それから、常陸太田市で大騒ぎとなり、青蓮寺に近年、二孝女の石碑が建立されたのはあまりにも有名な話である。ちなみに、発起人は前茨城県立太田一高同窓会長中村洋一氏である。大分県の臼杵の小中学校の校歌に豊後の二孝女が入っているという。なお、引接寺には原好誼軒の墓が弟子たちによって、1852年寿蔵の碑を建て、今でも残っている。
なお、好誼軒の肖像画が画家でもあった庄屋御殿といわれる鈴木家住宅の主鈴木市十郎が墨鮮で書き現存している。(カワサキ商会保有)、

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