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★額田城跡保存会★
会長 原公史
額田東郷
★額田城跡
2015年06月05日(金)
額田の偉人 沼田徳重(ぬまたとくしげ) 東京大学で教鞭をとった陸軍中将
沼田徳重は先祖は群馬県沼田の城主でその後額田で酒造業を営んだ。後には関家の酒造職人として勤めた。徳重の父は定助、母は多賀郡鮎川村成沢の瀬谷家である。明治22年に生まれ水戸中学に入学した。明治36年に太田中学に転校し38年に太田中学を第1回として卒業する。その当時は那珂郡、久慈郡、多賀郡の3郡にはじめて中学ができた。後の太田第一高等学校である。親友に隣村、幸久の岩船神社の宮司の長男萩谷正がいる。正は後に明治製菓顧問となる。徳重は中学卒業後陸軍士官学校に入学した。明治40年12月陸軍歩兵少尉となり近衛歩兵第2連隊付けとなり、同連隊の旗手をつとめた。旗手は同年代の一番優秀なものが務める習わしがあった。士官学校卒業後明治43年、中尉に進級し、明治45年陸軍大学校入学。卒業後近衛歩兵第2連隊中隊長となった。陸軍大学校の時代の沼田に対する評価は高く、先輩、同僚の言として頭脳明晰、主張も弁舌に長じ、努力家であることの印象を述べている。工兵学校教官や東京帝国大学に配属され、講義もした。大正14年に『軍隊教育新論』を著わし、戦術思想手段の訓練の指導は透徹した実践本意のもので妥協することがなかったという。第一師団参謀、東京帝国大学配属将校、千葉連隊区司令官、第二司令部付旅団長、陸軍中将、部隊長を歴任し、中国の戦線で病に倒れた。墓地は東京多磨霊園にあるが額田である地元では村葬として小学生も見送り、那珂市額田の引接寺に『陸軍中将沼田徳重の墓』が有志の手により建立された。東京帝国時代の講義の中で、満州の支配について日本は満州国を理想の国家に育成する責任はあるがそれ以上は望むべきでないとし、満州をソ連への防壁として育てるがそれ以上の戦線は不拡大であったと東京大学で受講し、後に沼田の娘婿であった上田四朗は後に回想している。
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