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額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

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2008年03月23日(日)

鈴木御殿と萬姫

鈴木御殿と萬姫 
額田村鈴木氏市十郎妻萬妃之事
            小田部一彦
         
鈴木市十郎妻萬姫の素性等について
額田村の鈴木市十郎は裕福にて大阪より綿を買い入れ資産家となりました。徳川光圀公は西山にご隠居のおり、水戸からの往復時に市十郎宅に立ち寄ったりしておりました。殿様で居られたときか、ご隠居されたときかははっきりしませんが萬姫という婦人を市十郎に嫁がせました。その理由としては武士の家に嫁がせるより市十郎の妻にしたほうが生涯を楽に送れると思ったからです。この萬姫を光圀公は隠して可愛がっておりましたが自分のお子であるとも言われております。萬姫は長生きで1758年の冬水戸家五代良公様(徳川 宗翰様(とくがわ むねもと)が始めて水戸へご帰郷の折、はじめて瑞龍の先祖の墓参りに来られたとき、 80歳になっておりました。鈴木家を立ち寄りお休みした際、書院の縁側に着物のすそをまくりながら、孫娘を従え、待っておりました。お殿様が着座すると丁寧にご挨拶をし、ご座布団まで進み出でて、つくずくお殿様の拝顔し、血筋からか光圀公にお顔が似ていらっしゃるといい退座致しました。萬姫様のお年から考えてみると光圀公が藩主であったときが有力でしょう。萬姫の遺したものを見ると幼年のときに着たと思える錦の袖なし羽織、または彩色のある絵数枚があり、中でも弁慶が薙刀をふるいそれにたこがからんでいる絵がありました。また、箱入りにて源氏物語の灌頂の巻(土佐家一門の方が描いたもの)がありました。そのほかお城の奥女中の方々の手紙がありましたが今はわずかしかありません。そのお城で能が開催されたときの一通の手紙にこのようなことも書いてありました。お殿様に今で言うサイン色紙のようなものおねだりして絹の白布をご用意したが殿様はこのようなことはしないものだとし、代わりに有栖川親王の直筆の書を近習を通して送り、これを掛け軸とせよとし書院に掲げられたと言うエピソードも含まれています。光圀公の時代の鈴木市十郎は大阪に上り、繰り綿の買占めをし、産を成しましたが当時の法律で買占めは違法であったため、大阪表にて検挙され入牢し、最後は牢死したと伝え聞いています。萬姫も出生の子供がいなくて養子を迎えて鈴木家を継いだとのことです。その後についてははっきりとわかりませんが現在継いでいる市十郎にとっては姫様がいずれの生まれで、誰の子かを知らず、ましてや母である人の名まで知らないのはあまりにも残念で嘆かわしいことでもある。これは西山に伝わる文献の雑話であるがまた説が分かれる話があり、萬姫には二人の女の子があり、姉を満、妹を熊といったという系図が鈴木家に残っている。これには鈴木家は常陸太田市天神林町の出身で佐竹に仕え、佐竹氏の秋田移封にともなってその後額田に移ってきたという。市十郎は最初の妻を大方の堀江家から迎え、後添えとして光圀公から娘をいただいたとのことでもある。このお姫様が満利姫といったという。光圀公は公式には本妻には子を持たぬと宣言したといい、跡継ぎに自分の子をすることはなかった。自分も親から水にせよというのを家来が密かに育てたという。このような経緯から額田で満利姫を御落胤とするも体裁を考え、上の寛永寺にわざと捨て子させ、その子を養育してきたという説もある。なお、参考までに、旧金砂郷町大方の堀江家の書院も有名で現在に残っている。

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