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額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

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2008年03月23日(日)

講演内容

額田の歴史について
講演 平成20年3月9日 小田部一彦
中里交流センター 日立市
ただいまご紹介いただきました那珂市額田の小田部と申します。今先生というようなことでご紹介されましたが歴史学者でもなく研究者でもなく単なる那珂市から来た観光案内人とお含みいただけたら、幸いです。本日の講義も皆さんと一緒に学習する機会を得たということです。
さて、私は、歴史のかかわりは6年前の金砂大祭礼でした。あることをきっかけとして当家に金砂大祭礼の天保年間の田楽覚書があるというのです。中を開いてびっくり致しました。何人かの手による40ページにわたる記録でした。早速、日立の志田教授のところに赴き内容分析を依頼いたしました。そのときすでに金砂大祭礼の著書を出し終わっており、大変な祭礼の内容の中で誤りに気がついたようです。大祭礼を主催したのは水府、金砂だけでなく、常陸国の修験者、神官、僧侶、武士階級で常陸国の多くの地域から参加してきたようであり、大祭礼を支えたのは佐竹、水戸徳川の統制の中で行われたことでした。平民は行列の中に加われなかったということでした。位の低いものは衣冠束帯の着用まで、御伺いをたてたり、寺社奉行に他国に恥をさらせないと新しい着物を着用すべく借金の申し込みをしたとのことです。さらに、祭礼の由来や田楽場の面積配置、小道具の様子、順路、役柄まで的確に記されています。大塚村、下手綱、伊師、久慈の浜、村松、中の湊、潮来、額田、川合、馬頭、薬谷、町屋、東染、小場、戸村、春友、馬頭といった具合です。それに加えて佐竹寺の縁起等の古文書も一緒に出てきてびっくりしたものです。それと茨城高校の先生をしている高校の同級生大和田君にふるさと額田の額田城の素晴らしさを聞いたことでした。中世の城としては関東の3本の指に入るとのことでした。「もっと、ふるさとを知る必要があるよ。」というアドバイスには、痛く感じたものです。
額田は地図を開いても見ていただければわかるように那珂市の北東部に位置し北に久慈川が流れ、南東部は今でこそ水田がありますが昭和初期の干拓事業の結果、有が池という広大な沼が水田になったわけで、それ以前は要害ともいうべき沼であったといわれます。水戸の千波湖のようなものが東、南側にあったと今年90歳になる父が言っており、小学生時分の湖畔から船で乗り出したと自慢げに言っております。中世に額田城を築きますがこうした自然環境が難攻不落の防御条件を作ったといえます。
そもそも、全国の額田という地名はどうなのかということで額田の古老に聞いても見ますと大正9年に額田の西に水郡線を通すことになり、線路工事をした際に古墳を発見、その中に舟形の石棺をみつけた。合計三つの古墳を潰してしまったとのことで昭和8年に時の村長鈴木忠之助氏と、大沢源七氏らが協力し、罰が当たるということでとそれに変わる墓を建てたものでした。新編常陸国誌からだと思うが額田部氏として骨を埋め、時の村長の菩提寺の引接寺の西の端に額田部氏の墓を建てて祀ったといわれています。このほど、新編常陸国誌の中から、久慈郡額田村の記述があり、見てみると、額田部の項で湯坐連ト同祖ナリ、久慈郡ニ額田村アリ、今那珂郡ニ属ス、茲額田部ノ居る処ナリ、天津彦根命ハ茨城国造、額田部連等ノ祖トアリ、又姓氏録ニ額田湯坐連は、天津彦根命ノ後ナリトアル、又姓氏録、額田部宿禰、角疑魂命男、五十狭経魂命之後也トアリ、サレ共当国ハ彦根命ノ後ト見エタリ、
(額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)と同祖で久慈郡額田村いまは那珂郡に属している。ここは額田部のすむ処である。日本書記には天津彦根命は茨城国造の額田部連等の祖でありまた、姓氏録には額田部湯坐連は、天津彦根命の後裔にあたるとある。) ここで、改めて全国の額田部氏に興味をもち、ホームページから調べてみると大変なことがわかった。額田部氏が天皇にかかわる記述や寺社仏閣があるということでした。(以下抜粋)
まずは、推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日))は、ぬかだのひめみこといわれました。推古天皇は第33代の天皇。初の女帝である。(在位崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日))。 諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。 彼女が最初の天皇号を名乗ったと言う説と、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有る。推古が最初なら、厳密な意味での日本の初代天皇は女性である。 『古事記』ではこの天皇までを記している。ぬかたべのひめみこは何と天皇になる前の名なのであった。天皇にかかわる額田部氏のかかわりに大きな驚きを感じた。

2、額田部比羅夫 推古天皇時の外交官でした。
ぬかたべのひらふ (?~?)
略伝
飛鳥時代。

「連」姓。


、推古天皇16(608)年、
前年に日本から遣隋使を派遣したことに対する
唐の返礼使である裴世清を海石榴市の衢において
出迎える。

この時、比羅夫は、
歓迎儀式用に飾り立てた騎馬隊75頭を率いて、
『禮の辞を告す』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と言う大役を果たしている。

こうして古代日本は、その首府である飛鳥の地へ
東アジアの大国隋の正式な外交使節を
迎えることとなるのである。

『隋書』には、裴世清が、
飛鳥に足を踏み入れた際の様子について書かれてあり、
この中で「哥多比(田へんに「比」)」とあるのが、
ヌカタベのカタベで比羅夫のことを指すと
考えられている。

その時の飾馬の数は、200であったと書かれてあり、
裴世清が感動して驚くほどに、比羅夫の歓迎の辞は、
その心を掴んだのである。

なお『隋書』の記述から当時の比羅夫が、
大礼(冠位十二階)の位にあったことが伺える。
推古天皇18(610)年には、
新羅と任那から来朝した外交使節を迎えて、
比羅夫は新羅使の饗応を命じられている。
以後、正史からは、その名が消える。
飛鳥時代、
中でも推古天皇朝の外交と言うと、
小野妹子の存在が際立って目立っているが、
その影での額田部比羅夫の行動は見逃せないものがある。
唐の返礼使である裴世清の来朝にあたって、
正式に国家を代表して歓迎したのは比羅夫である。
妹子が拓いた隋との外交の道筋を、
この瞬間、比羅夫が確実なものにしたのである。
また裴世清を無事に迎え隋との国交が開いた後に、
外交関係の再構築を必要とされた新羅からの外交使節の
対応にあたったのも比羅夫である。
かつて額田部氏は、欽明天皇22(561)年に、
新羅使を饗応したことが正史に記録されており、
比羅夫も推古天皇朝において外交実務官人として
活躍していたのはないだろうか。


3、額田王 額田のおおきみ
大海人皇子の后、天智天皇にも仕える。万葉集 日本書紀の歌人 約1,800年前、三河郡史には、成務天皇〔第13代)の時代に額田部の一族が天皇の名代として全国へ遣わされ、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)の子 額田部柱津連(ぬかたべのはしらずのむらじ)が、この地の郡造(こおりのみやっこ)として就任している。
額田部湯坐連・・・現在の奈良県大和郡山市額田に本拠地をもっていた皇子養育のためにおかれた湯坐連につながる皇族部民。額田姫王の祖先、もしくはこの一族が皇后を輩出したり、また額田姫王を養育したと伝えられる。

4、大和国の額田寺には国宝の伽藍条理図があります。この例では
額田寺伽藍並条里図 (国宝)


額田寺伽藍並条里図 (復原複製)






麻布に彩色。縦113.7センチ、横72.5センチ。 成立は8世紀後半。本図は奈良時代の荘園図で、大和国平群額田郷を本拠とした古代の豪族、 額田部氏の氏寺である額田寺の伽藍および寺領を麻布(調布)に彩色で描いたものである。 官営の東大寺とは異なる畿内の中級貴族の氏寺とその寺領の様子が描かれていることが大きな特色。 絵図には奈良盆地の北西部に位置する額田寺の伽藍を中心に佐保川と初瀬川の合流点およびその北方の額田部丘陵が描かれている。 その記載範囲は南北は約1100メートル、東西は約700メートルほどである。 記載内容の判読は、全体が褐色に退色しているため肉眼では極めて困難な状況にある。 墨書や寺の伽藍の朱線、印影などがわずかに確認できるのみである。 そのため、国立歴史民俗博物館と東京大学史料編纂所は1年半の年月をかけて共同で復原を試み、1200年前の原型や色彩を蘇らせた。 X線や顕微鏡による観察で図や文字を解読、繊維の間に残る顔料の粒を見つけだし色を再現、麻布も当時の手法で織りあげ、現地調査を加味して復原した。
 
5、三重県にも 額田神社

額田神社の由緒
【延喜式神名帳】額田神社 伊勢国 桑名郡鎮座

   【現社名】額田神社
   【住所】三重県桑名市額田 711
   【祭神】意富伊我都命 天照大御神 天津彦根命
   【例祭】10月16日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】允恭天皇の代に創立
       文政8年(1825)分祀
       明治14年10月28日 郷社
【関係氏族】額田部氏
   【鎮座地】旧地は増田村中央で「旧宮跡」の標あり
【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所
   【境内社】
桑名IC西、桑名福祉センター西の山麓に鎮座する。
この地に勢力があった額田部氏の氏神としてその祖先を祀つたものと思われる。
今は有吉台団地の住宅地になつている丘陵地に額田廃寺があつた。
この寺は七世紀後牛、即ち飛鳥時代に額田部氏によって建てられたといわれ、金堂、講堂、塔などの跡が判明し、法隆寺様式だと推定されている。
もとは増田の額田神社の地に鎮座していたが、後に部落が西北約一キロの地点に移住し、新たに額田村をつくり、額田神社をこの宮山に移して祭祀することになつた。

由緒

◆祭神
意冨伊我都命
天津彦根命ノ御孫ニシテ額田部連ノ御祖神デアリ第十九代(允恭天皇:西暦440年)ノ御世ニ御奉斎セラル。延喜式神名帳ニ桑名郡(郷)額田神社也トアル。
明治14年10月28日 郷社ニ列セラレル

◆合殿
天照皇大神
天津彦根命
◆例祭
十月十六日
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

6、額田部臣銘入り太刀が発見された。
 松江
■重要文化財「額田部臣」銘入大刀
ぬかたべのおみめいいりたち

【出土地】松江市 岡田山1号墳
【時 代】古墳時代
【所有者】六所神社
【法 量】現在長 約52cm
【概 要】岡田山1号墳は、八雲立つ風土記の丘資料館のすぐ近くにある全長約24mの前方後方墳です。
1915(大正4)年に、この古墳の横穴式石室内から錆びで全体を覆われた円頭大刀の他多くの副葬品がみつかりました。
そして、1984(昭和59)年、保存修理のために円頭大刀をX線撮影したところ、刀身部に「額田部臣」を含む12文字の銘文が浮かび上がりました。
銘文は、刀身にタガネで文字を刻んだ後、その刻んだ箇所に銀を埋めこむという「象嵌(ぞうがん)」技法が用いられていました。
この大刀の柄頭には、亀甲つなぎに鳳凰の文様、目釘穴の周りには花形文様が、鍔にはC字文様が、やはり銀象嵌で描かれています。
また、柄には断面三角形の銀線が巻かれています。
銘文の「額田部臣」は、この大刀が作られたと考えられる6世紀の半ば頃に、「部民制(べみんせい)」が実在していたことを示す文字資料として、日本の古代史上でも注目されるものです。
現在、銘文を研ぎ出した後、銀の酸化を防ぐために、窒素ガスを封入したケースに入れて保管展示中です。


7、墓からみた古代社会
古代史料部門 稲田奈津子氏より
 東京大学の史料編纂所では、現存する古代・中世の荘園絵図約300点の調査・研究を継続的におこなっている。1988年からは『日本荘園絵図聚影』全7冊を出版、2006年度からは同書の釈文編を出版する予定であるが、「大和国額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館所蔵)もそうしたなかで調査・研究がおこなわれてきた。
 本図は、現在の奈良県大和郡山市にある額安寺(額田寺)に伝えられた、現存する数少ない奈良時代の荘園絵図である。麻布に描かれた本図は、長い年月のために破損や変色が甚だしく、描かれた図像や文字の判読は困難な状態にあった。そこで本所と国立歴史民俗博物館とが中心となって詳細な研究をすすめ、その成果にもとづき本所技術職員が麻布への復原模写に取り組み、制作当時の迫力を伝える鮮やかな複製を完成させた。
 本図は、額田寺の伽藍や寺領を中心とする景観を描いたものである。当時、この地域は豪族・額田部氏の本拠地であり、額田寺は彼らの氏寺であった。本図には「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものをはじめ多くの墓が描かれているが、それらは現在も現地で確認することができ、5~7世紀の古墳であることが知られている。本図からは、8世紀当時、額田寺を氏寺として信仰していた額田部氏が、同時に古墳を一族の「先祖」墓として祀っていたことを読み取ることができるのである。飛鳥寺の塔心礎から武具や馬具が出土したことから、初期寺院と後期古墳との密接な関係が指摘されているが、本図からも、古墳から氏寺へという氏族の信仰対象の変化、また一族結集の場の多様性を窺うことができるのである。
 氏族の結集の場としての墳墓は、和気清麻呂の事例からも知ることができる。宇佐八幡宮神託事件で左遷された和気清麻呂は、称徳天皇没後、再び都に呼び戻されて勢力を回復すると、「左遷中に本郷(岡山県)の祖先墓が荒らされた」と天皇に祖先墓の保護援助を求めるのである。ここからは、清麻呂の祖先墓が地元の親族によって維持管理されていたこと、しかしそれは遠く離れた都にいる清麻呂の権力に依存するものであったことなどが読み取れるが、こうして保護を勝ち得た地元の祖先墓に清麻呂が葬られることはなかった。現在、京都の神護寺に清麻呂墓と伝えられるものが残されており、平安京周辺に単独で葬られたと考えられるのである。
 次に出土した古代の墓誌銘に注目すると、7世紀の船王後や小野毛人の墓誌からは、彼らが本拠地の墓地で一族とともに葬られていたことがわかるのに対し、8世紀になると、ひきつづき地元で埋葬される人々がいる一方で、太安万侶のような上級官人は都城の周辺に単独で埋葬されるようになるという傾向を読み取ることができ、和気清麻呂の事例とも対応するのである。こうした変化は、土着の豪族を地元からひき離して京内へ移住させ、律令官僚制のもとに再編成しようとする、律令国家の形成過程の中で理解することができるだろう。本拠地の氏族墓に氏族の長として葬られる時代から、都城周辺に律令官人の一員として葬られる時代へと変化したのである。
 墓は、一見すると考古学分野の素材ではあるが、荘園絵図や出土墓誌を丹念に読み込むことにより、文献史学(日本史)の立場からも多くの知見を得ることができる。なお、史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。

1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭和4年)に史料編纂所と改称。

戦後は、1950年4月に文学部から独立し、1954年より教授・助教授(現在は准教授)・助手(現在は助教)の教官制となった。


[編集] 組織
現在の編纂所は研究部、図書部、史料保存技術室、事務室から構成されており、研究部は古代史料部門、中世史料部門、近世史料部門、古文書・古記録部門、特殊史料部門の5部門がある。

こうしてみると、
戻って、額田部湯坐連
は現在の奈良県大和郡山市額田に本拠地をもっていた皇子養育のためにおかれた額田湯坐連(ぬかだのゆえのむらじ)が推古天皇や額田王の幼少期を育ててきた役割、また額田部比羅夫のような新羅とうの外交官の役割を果たしたりして常に重要な役割をはたし、奈良、滋賀、三重、三河、常陸の国にまたがる額田の名と文化遺産は大変なものがある。また、神社、お寺としてその名が使用され信仰の対象になっているのも注目に値するものである。
那珂市の額田に戻ってみると、常陸風土記からすっぽりと抜け語り告げられないのは不思議である。新地古墳6箇所をはじめ大宮古墳、天神小屋古墳等の円墳の古墳群、森戸遺跡、小堤遺跡当たくさんの遺跡があり、舟形石棺や大きな埴輪や土器類を見るとき何か朝廷につながる額田部氏の存在は大きい。話は変わるが1000万年前に発見されたナカマチクジラを見るときなおさら古代への言い知れぬロマンを感ずるものでもある。
この地域を支配したという久自国造の存在と小島、島、機初の前方後円墳の存在と額田部氏のかかわり、長幡部氏、太田部氏のかかわりがどのようにあったかは興味深いものがある。額田からみて風水の鬼門に相応する墓墳の存在も興味深いものがある。物部氏の系統にも額田氏があり、仏教伝来や大化の改新まで常陸国にそして額田に関連する歴史を紐解かねばという考えにも及んだ。古墳時代を経て、中央における蘇我氏と物部氏との仏教伝来をめぐる神道派との争いは興味深いものがある。蘇我氏を支持する厩皇子(聖徳太子)に対し古くからの神々を支持する物部氏は蘇我氏の前に敗れた。これにより、一時佛教派が勢力を拡大した。これに対し蘇我氏の配下であった中臣氏(鎌足)が中大兄皇子と組み蘇我入鹿を殺害、神を支持する派が勢いを盛り返し藤原氏を名乗り後に、、藤原不比等、藤原道長等の藤原時代を築くことになる。今でも神社の宮司、禰宜の苗字をみると藤原系統の者が多い由縁である。日本の姓氏は約30万種類もあるそうで、(以下抜粋)そのうちの「6大姓」は,山,川、海、田、神官、武士である。そして、基本は、源氏、平氏、藤原氏、橘氏を源流としている。額田近隣を例に取ると、

「山族」は、たとえば 秋山、山崎、大山、坂本、柴山、横山、澤山、平山、住谷、根本、榊原、椎名、大森、富岡 、松本などであり、
 「川族」は小川、中川、助川、大沢、河合、石川、箕川、鶴川、清水,川又、黒澤、小沢、佐川、舟橋、小河原など
「海族」は北島、中島、小島、磯崎、海野、磯野、海後、矢島、岩崎、千ヶ崎などで、
 「田族」は中村、池田、小田、鶴田、田中、山田、成田、高畠、和田、田口、     久米、稲田、小田倉、小田内、森田、本田、樋田などである。
 「武士族」は軍司、郡司、武士、武石、庄司、結城などである。
 「神官」は鈴木、高橋、斉藤の三つが主流で、
 「鈴木」はもと「穂積氏」であり、農作の「稲子積み・いねこづみ」の真ん中に立てた木の棒から、「寿寿木・すすき」の名前が生まれた。農民の稲の豊作を祈る神主だったのです。
「稲子積み」の木の棒は、天の稲魂(いなだま)を招くためのもので、稲作の神様はこの棒を伝って地上に降りてくる。だから鈴木氏はもともとは農事関係の神官だったといわれています。
 
全国の鈴木姓は現在(*20年ほど前の調査)主として東日本を中心に200万人も居るそうですが、殆どが熊野権現の神主の末裔が全国に分布したもので、稲作農民の広がりとともに、いわば神道の布教師として鈴木氏は全国に急速に広がったに思われる。額田にも鈴木氏があり、紀州説、佐竹説がある。
 
 「高橋姓」は農民の神官ではなく、【貴族階級と神との接点】としての神官であり、「斉藤姓」は斉宮(いつきのみや)であった「藤原氏」から出た「斉藤氏」である。確かに地元を探しても神職の姓は那珂市静の静神社が常陸太田市の真弓神社が斉藤氏でもある。「八代」という姓がある神官の姓で、八代は社(やしろ)であり、これも運の良い名字である。
なお、斉藤氏が出たついでではあるが、藤原氏は多くの姓が在り、国名や郡を名をつけて、分けた経緯があり、加賀の加藤、武蔵の武藤、那須の須藤、佐野の佐藤、近江の近藤、遠州の遠藤、伊豆の伊藤、備後の後藤
とあるのも興味深い。額田近辺においても武藤氏、加藤氏、佐藤氏、遠藤氏、近藤氏、後藤氏が見られる。藤原の祖は中臣氏、そのルーツを探ってみる。

                     
中臣氏のルーツ 中臣御食子
なかとみのみけこ (?~?)
略伝
飛鳥時代。
中臣(藤原)鎌足の父。
中臣可多能子(しめすへんに「古」)の子。
「彌気」「美気古」とも書かれる。
「連」姓で鹿島神宮の宮司説があり、中臣鎌足が鹿島から出て、中央で活躍したという。これが元で鹿島の神を春日大社へ遷したと言えば孫の藤原不比等が春日大社に力を注ぐのは頷ける。春日大社の縁起に鹿島の神が鹿に乗って春日大社に遷る絵を見せられて、何故にと疑問をもったが納得がいったものです。
大伴久比子━━━智仙娘
         │
         ┝━━━━鎌足━┳定慧
         │       ┣不比等
         │       ┣耳面刀自
         │       ┣氷上媛
         │       ┗五百重媛      
         │
 中臣可多能子━┳御食子
        ┣国子━━━国足━━意美麻呂
     ┗糠手子━━金+
ここで名字と苗字について述べてみます。
名字のもととなる氏姓制度は大化の改新後、出てまいりますが一般に導入されたのは貴族が平安時代となり京都の道筋の地名や寺の名を名字としました。一条家。九条家、武者小路家、西園寺家や徳大寺家といった具合でした。武士の台頭により名田開発が進み、その地名すなわち字(あざな)が出てきてそのものの名字として名乗りました。名田の支配者、字の支配者といえます。源氏の源昌義が佐竹の地の佐竹氏を名乗り、甲斐源氏武田発祥地といわれるひたちなか市の武田の地をとって武田義清と名乗りました。常陸太田の太田城を追われ、小野崎に落ち着く藤原氏系の太田太夫も小野崎氏を名乗ります。那珂氏、江戸氏、大塚氏も同様に地名をとり名字とします。名田の連合体を示すのが後の戦国の大名に育って行きます。名田の主は名主とも言われました。その中で名をとらすなどと家来ができ苗字が生まれます。田と苗の関係といえば分かりがいいでしょう。主従関係も明確になりました。

遡って、常陸の国は常陸風土記によると、常道(直道)といわれた時期があり、ひたみちの奥、みちのおくが「みちのく」と言われたといいます。平安時代征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首領アテルイ(鹿島神宮に悪路王としてのお面がある)の征伐に行くことは知られていますがこの当時は大和の国の一番はずれの国は常道(ひたみち)国でした。常陸の国になり、陸の奥という考えの下、陸奥(むつ)国ができます。ですから常陸の国は征伐者の進軍により、国の境は動いたわけです。岩城国ができたのは後のことでした。陸奥国も最終的に青森まで退いたことになります。そのような中にあっても地方の抵抗は続きます。蝦夷、阿部氏、清原氏 、藤原氏と覇権は移ります。源義家の奥州遠征もあり、数々の伝説も生まれます。そして、奥州藤原氏も源頼朝の前に平定されていきます。
一方源義家の弟、源義光が常陸の国に残り、佐竹氏、武田氏の祖となりますがその当時の常陸の国はまさに平氏の国でした。地方の豪族は平氏との縁組を望んだのです。源義家も母は平直方の娘でした。久慈川流域には千葉氏系の高畠氏、鴨志田氏、宇野氏、宮崎氏といった平氏系の名が見えます。それは、千葉宗家を筆頭とする九曜紋に現れています。源平の合戦に佐竹氏が中立であったのもわかるでしょう。源氏の流れも額田系を遡れば源義家の弟義光の孫源昌義が佐竹氏を名乗り馬坂城が築かれ、3代目佐竹隆義のときに太田城を奪取し太田にはいります。佐竹昌義の台頭から数えて5代目佐竹義重公の時の次男義直のとき分家し、1249年、額田城を築きます。1185年(1192年)に源頼朝により鎌倉幕府がひらかれて60年を過ぎてのことです。現在の額田城より、西側にあったと言われています。佐竹氏は10代続き、佐竹本家の跡目争いにまきこまれ、本家が上杉家から婿を娶る考えに反対し、水府の山入氏の乱に加担し1423年に滅ぼされます。約170年の額田佐竹氏の時代が終わりを告げます。その間に中央では南北朝の戦いがあります。関城の関氏、瓜蓮城の楠木氏、那珂氏が敗走します。那珂氏の一部のみが生き残ります。これが江戸氏の流れです。
一方、瑞龍の小野崎氏も勢力をつけ、分家をしていきます。今の日立の助川氏も小野崎氏が助川郷に入り助川を名乗り、大久保、滑川、相賀氏、宮田氏と流れて行きます。また、小野崎本家も北茨城の松尾に移らされ、それから分かれて、額田、石神に分家していき、それぞれ額田城主、石神城主となります。
それぞれ自立性をもち、力をつけていきます。額田小野崎の始めての城主は佐竹臣下の小野崎通重がなり、さらに自立性を保ちながら力を付けていきます。現在の壮大な額田城郭も小野崎氏となってからです。2代目で水戸の江戸氏から養子を迎えたのも、江戸氏が後ろ盾となり強大化に拍車をかけたともいえるでしょう。(参考までに北朝からの江戸氏であるがもともとは南朝方の那珂氏(下江戸)から起き、河和田城主を経て水戸城主となります。壮烈な南北朝時代の戦いを経ての結果であります。) 額田城跡は本丸、二の丸、三の丸が連郭を成しその周りを複雑に廓が囲み、多連郭を形成する方式となっております。堀は空堀ですが14、5mあり攻撃を難しくしてきました。南に有賀池、北を久慈川が流れ、大勢の軍勢が渡るのは困難でした。なお、有賀池は大小2つの池があり、雄池、雌池といわれ通称鶴が池と言われました。
このようにして自立性を高めながらも、同族、石神城との戦いや本家筋への横領等を繰り返しながら、額田のみではなく、ひたちなか、東海、常陸太田の地域にまで覇権を強めていき、一時は本家佐竹氏を脅かすまでになり、田渡、白羽までに及んでいました。しかし、常陸の国を統一しようという本家佐竹氏に1591年に滅ぼされる運命となります。佐竹本家20代佐竹義宣により小野崎九兵衛照通は追放され奥州伊達を頼り、逃亡します。ここに170年間の額田小野崎氏の時代は終わりを告げ、340年の佐竹からの額田氏の時代に幕がひかれました。340年というと長期にわたっての支配で徳川幕府の300年弱からみても長期覇権と言えます。
その間の家臣の名字に触れてみますと額田小野崎から分家した小田内氏、日立地区の姓で今でも町名となっている大久保氏、助川氏、大森氏、宮田氏、江戸氏系の箕川氏、常陸太田の田渡城主の内桶氏、照通の奥方の逃亡を助けた藤咲氏、日立からの青山氏、ひたちなかの清水氏、松本氏、木名瀬氏等数多くの家臣名が近隣に残っているのが興味深い。ちなみに確認したが小田内氏、助川氏はまさしく小野崎家紋左二つ巴でもある。額田永井にある助川家には二つ巴の鍔の古刀が残っている。またこの永井という地名にはいま、永井氏は居住しておりませんが常陸太田市磯部町に見られます。そして、舟橋氏、関氏、樫村氏、原氏、田所氏、根本氏、椎名氏、武藤氏、横山氏、渡辺氏、片野氏、加藤氏、富岡氏、柴山氏、秋山氏、住谷氏、小田倉氏、鈴木氏、草野氏、榊原氏等は何時、城の郭内に居住するのか興味深いものがある。何時、家臣となったのか。また、疑問も残るところでもある。現在もある菅谷の樫村館、軍司館、宮田館、加藤館、平野館、藤咲館は江戸氏家臣かまた額田家臣か興味深いものがある。菅谷は江戸氏と小野崎氏の接点となりました。対立、和睦と城主の意思で左右され、大変な土地柄でした。樫村、軍司、加藤は額田にも見える名であり額田方の可能性は高いといえます。
また、鎌倉時代の武士の信仰心は神社、仏閣を重んじ、大きな力となりました。額田氏においても例外でなく、鎌倉、室町、安土桃山、戦国とそれぞれの時代に応じて信仰心をもって対応してきました。佐竹の時代の八幡宮は源氏の信仰した岩清水八幡宮です。鹿島信仰も古くから戦勝祈願の対象となります。   後に廃寺となった寺を含め多くの寺が建立されています。額田佐竹氏の鱗勝院(日光寺)、額田小野崎氏のとき、額田神社に大般若経600巻の寄進そのなかに現在のひたちなか高野城主清水氏にも寄進を命じています。当時は神仏混淆の思想があり、神社と寺の管理を一つとしてきました。現在、真言宗毘盧遮那寺(観音寺、盧遮那寺、乗林寺の統廃合)で管理が成されています。境内にある熊野神社はまさしく神仏混淆の証しといえます。また、小野崎氏は城里町の大山からも阿弥陀寺を遷してきております。阿弥陀寺は大山草庵といわれ奥郡の親鸞聖人の布教のもととなった寺で親鸞が師である法然上人の3回忌の法要をしたところであり、真宗開宗宣言した寺としても有名でもあります。真宗の証拠の寺として、証拠山阿弥陀寺というのも何ともすごい名でしょう。今でも福井や滋賀の方からバスを連ねて阿弥陀寺を訪れる所以です。期を同じくして開かれた真宗の光照寺、そして本米崎の上宮寺、国宝の聖徳太子絵伝があります。親鸞聖人を殺そうと待ち受けた弁円、諭され改心し明法坊となる伝説的話が残っています。(常陸大宮市の法専寺に弁円の墓がある。)
また、額田を追われ、奥州を経て、北陸から水戸徳川家にスカウトされ水戸に舞い戻る小野崎照通の過去帳らしきものが上宮寺にあります。ちなみにお墓は水戸市元吉田にあります。廃寺となりましたが城の周りに観音寺、鏡智院、乗林院、盛賢寺、常念寺、森戸の宝光院、観楽寺正法院等や三光院(山光院)、万宝院等多数の修験寺がありました。三光とは日の光、月の光、星の光でこうした恵みを地に五穀豊穣をもたらす光が雷であり、天と地を結びつけ、稲光とか稲妻といわれました。山岳宗教として山伏といわれる修験者にもその思想が浸透していきます。また江戸期になり、水戸徳川の初代武田信吉が幼少にしてなくなりますが額田の地、有が池の南に浄鑑院常福寺という伽藍の整った壮大な寺院が造られました。(総本山知恩院確認) 前身は水戸備前町に心光寺とあり、久慈郡向山に移し、規模拡大、浄鑑院と称した。(久昌寺 元禄年間、日乗上人日記より徳川光圀公の招請により益誉融心和尚が浄鑑院3世主とある。益誉上人は後の元禄9年の光圀山引接寺開基上人) 後に、江戸の増上寺と水戸徳川家とのトラブルの中、増上寺に加担したと見做され水戸家の怒りを買い瓜連に遷されています。その後の天狗諸生の乱で焼失してしまいました。その他、多くの寺がありましたが光圀公、斉昭公の相次ぐ寺社改革で廃寺となりました。そうした中でも光圀公の時代には額田の寺院を度々訪れています。浄鑑院、阿弥陀寺、鱗勝院、観音院、心観寺(心岩寺)と親交があったと書かれています。(前述 日乗上人日記から) 光圀の手により光圀山引接寺ができます。現在でも額田地区は1,300世帯ほどですが5つの寺があり、世帯数から檀家の多さは考えにくい多い数です。これは、額田の周囲の村のお寺が廃寺となってしまい、現在も額田の檀家となっている所以でしょう。ひたちなか、東海村、後台、横堀、本米崎、土木内、常陸太田市までに及んでいます。そして、忘れてならないのが三島神社です。800年を超える椎の木、1860年の桜田門外の変の水戸浪士の一人の海後氏は静の静神社の斉藤氏と共に有名です。幕府に大きな打撃を与えた事件でした。幕府の権威は失墜し、その8年後に明治維新となります。
額田は古代から江戸期まで常陸の国の中枢を担ってきたと見え、改めて額田部氏からの明治維新を迎え,多くの住民が村を挙げて総出で山車つくりをしていく姿を見るとき、新しい時代への息吹を体感し、地域をあげての大祭礼にかけ、大きな希望に胸が膨らんだのではなかろうか。ふるさと額田の長い歴史と古代への荘厳なまでのロマンを感ずるものです。その間の風俗、文化からも色々な歴史があります。佐竹から水戸への変遷期、佐竹への郷愁をこめての額田のたっつぁい伝説に見る殿様への皮肉的風刺、他人を害さないうそつき名人の存在、さぞかし、棚倉街道に大法螺吹きとして宿場の寝物語に語りつがれたろうし、子、孫と伝説的に伝わってきたことにえも言えぬ爽快感をおぼえます。「たっつぁいさん、どこへいったの」「筑波山を倒れそうなのでつっかい棒をしに行ったよ」「おらのうちに来てみろ 九里四方藤だらけだ」行って見ると、栗の木に細い藤のつるがからまっていたと。また、額田城と大蛇の話、七鬼伝説、長い間の伝説にも歴史の脈々とした流れを感じます。江戸期の繁栄は文学面でも多くの俳人を生み、心の豊かさも見られました。松尾芭蕉を讃え、没後100年に額田東郷の地に芭蕉の碑を建てています。裕福なゆえに徳川光圀が愛娘を嫁がせた鈴木家御殿、御殿を挙げてのお殿様の迎え方も記録に残っています。元禄12年9月26日、光圀公ぬかだにお着也。鈴木市十郎は京へ行って留守、代わって、父市兵衛がご近習まで残らず、酒のましけると日乗上人は日記に書いています。15代将軍慶喜公が泊まった寺門家での父斉昭との掛け軸との絡みは改めて殿様や親への敬意といまだからこそさらに、重みを感ずるものがあります。
こうして話してきましたが改めて額田という地域の有形無形の遺産がある地域であることがお分かりでしょう。時間がありませんが本日は長時間にわたり、ご聴講ありがとうございました。
こうした話を踏まえ、来週、額田をご覧になり、改めて額田を好きになっていただくことを期待し皆様をご案内いたしますのでよろしくお願いいたします。本日はつたないお話でしたが誠にありがとうございました。


額田歴史の散歩道(額田城跡保存会員)

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