額田小野崎氏
額田小野崎氏の家系
小野崎氏は、山尾流を宗家に、額田、石神の有力庶子家があった。
額田小野崎氏は、通胤の子通業の孫隼人正通重が那珂郡額田城に拠ったことに始まる。小野崎氏の有力一族として、佐竹氏の旗下に属しながらも自立性が高く、たびたび佐竹氏に反抗を繰り返してきた。戦国期の当主は従通で彦三郎を称し、のち下野守となった。従通の名の初見は、天正九年(1581)十二月、家臣の富岡孫太郎に一字を与え、通茂を名らせたときである。同十六?十七年に、江戸氏の内紛である「神生の乱」が起きた時、その張本人の神生右衛門大夫を援け、佐竹義宣の支援を受けた江戸重通と戦った。この時、佐竹氏と対立していた伊達政宗は、自分に味方すれば照通に江戸一跡を与えようと誘いをかけている。しかし、同十七年五月、重通・従通間の和が成り、照通はふたたび佐竹氏の旗下に属し、翌年五月の佐竹氏の小田原参陣に際して、義宣に従い秀吉に謁した。その翌年、豊臣政権を背景とした佐竹義宣が、領国統一のために額田城に攻撃をかけたため、照通はたまらず伊達政宗を頼って落ちていった。
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